親になるを選んだ。ワタシの話

『どうしてパパは優しいの?』

ある日、娘にこんなことを聞かれて

『パパはさ、他のパパとちょっと違って、

”よし!この子のパパになろう!”って選んでパパになったんだ。』

『そんなヤツが優しくなかったらやばいでしょ(笑)』

と娘達にも、こんな感じで伝えています!

今回は、そんなワタシが考える「親」ってなんだ?というテーマのお話しです!

親になるとは

「親になる」とは?
多くの人は、子どもが誕生して、“親”という肩書きを得る。

だがワタシはちょっと違います。

ワタシと娘達に血の繋がりはない。

娘が3歳になってから家族になった“途中参加のぱぱ”です。

初めは、こんなことを思っていた。
『子どもとの接触が一切なかった人間が、本当に親になれるのか?』

いつも適当に考えるワタシだが、”親”というテーマは責任が伴うので、ちゃんと考えました。

そして行き着いたのは意外な結論でした。
『親とは、自分がなると決めるものじゃない。子どもに“認められる”ことで初めて成立する存在だ』

つまり、どれだけ『よし、今日から親になるぞ』と気合を入れても、

子どもからすれば『誰?』というのが正直な反応だ。
だからこそ、やるべきことは「覚悟」ではなく。
認められるまで、親としての姿勢を黙々と貫き続けることです。

これがワタシの“親のスタートライン”でした。

親とは想像をはるかに超えるものだった

娘と一緒に過ごす時間は、最初は想像よりも遥かにしんどいものでした。
途中参加のぶん、少しでも“差”を埋めようと必死。
一応、10年の結婚生活を経験していたとはいえ…甘かった。

子育ては、そんなに優しくなかった。

体力も、気力も、全部持っていかれる日々
妻が何食わぬ顔でこなしているのを見て、自然とリスペクトが湧いてきました。

でも、不思議と繰り返すうちに少しずつ“慣れ”が出てきます!
『親になるための筋肉』みたいなものが、自分の中で育っていく感覚。

その実感が芽生えたのは、ふとした日常の中

子どもとふたりで外出しても、特に問題もなく過ごせるようになった時です。

最初の娘とのお出かけは、ほんとにボロボロでした。
あらゆるトラブルに対応できず、帰宅後はそのまま倒れこみ、体調も崩した。

でも今は、どこに行っても一緒に楽しめるようになった。
“パパとふたり”でも、何の不安もない。
その時、思いました。

ああ、親に“慣れて”きたな…と。

血のつながりは、さほど関係ない

考えてみれば、ワタシの実の父も、年に2回ほどしか家に帰ってきませんでした。
血の繋がりはあっても、「父親」という実感はほとんどなかった。

そういった経験もあって、ワタシの中には自然と
『親とは、血ではなく時間である』という感覚が根付いています。

父と一緒に遊んだ記憶や、思い出らしい思い出も、正直ありません。
でも、それが当たり前だったので、特別さみしさを感じることもなかった。

むしろ今になって思えば、
この“親とは何か”という問いに向き合うために、
父は体を張って教えてくれたのかもしれない。

そう思えば、良い父です(笑)

途中参加だったとしても、
血が繋がっていなくても、
自分が産ませたわけじゃなくても、
『親になる』ことはできる。

その条件は、
子どもに“親”として認めてもらえるかどうか。

そしてそのためには、
言葉じゃなく、時間。
気合いじゃなく、継続。
そして、何より『その子の人生に本気で関わる覚悟』が要る。

さいごに

極端な話だが、親には子どもさえいればなれてしまう。
そこに責任感や覚悟がなくても、
“親”という肩書きだけは、簡単に与えられてしまうものです。

だけどワタシは違う。
「この子のパパになろう」と、自分で選んで親になった。

それに比べて、子は親を選べない。
スタートからして、すごく不利な立場にいる。

それなのに、親が子に与える影響はとてつもなく大きい。
だからこそ、選んで親になったワタシには、
その子の人生を背負う“ある程度の覚悟”が必要だと思っている。

…とはいえ、ワタシは完璧な親じゃない。
理想も高いわけでもないし、失敗もする。
でも、こうやって日々向き合いながら思う。

きっと、もう「親になれてきた」と言っていいはずだ。

これは、途中参加でスタートした、ちょっと遅めの“親物語”。
でも、そんな親がいてもいいと思う。
むしろ、これからの時代は
「親の定義」だって、もっと自由でいい。

日本は年々、子どもが減っている。
それはつまり、親もどんどん減っているということ。

……だから、なんだという話ではあるけど(笑)

ワタシはこれからも、
少しの覚悟と、たっぷりの楽しみを持って、
“親”をやっていきます!